猿画の世界を探る③ あとから気づくこと
今回の特別展の準備でもっとも大変だったのは、「説明文を書く」ことでした。自分の専門分野のことなら書き進めるのも幾分楽なのですが(それでもだいぶ悩みはしますが)、今回のようにまったくの専門外のテーマの場合は、1から調べながら、ということになります。作者がどういう人なのか、そこに描かれたテーマは何なのか・・・展示する作品を決めた後、急ピッチで筆を進めるのはなかなか苦労しました。それでも何とか書きあげて、展示にこぎつけました。ただ、展示がスタートした後になってからあらためて気づくこと、発見することというのが今回の特別展ではいくつかありました。
4月上旬に京都市動物園に出張した時のことです。京都市動物園の方から、「近くの美術館で森狙仙の作品が展示されている」と教えていただきました。京都・大阪の江戸時代以降の画壇についての展覧会で、せっかくなので時間を見つけて見学してきました。
4月上旬に京都市動物園に出張した時のことです。京都市動物園の方から、「近くの美術館で森狙仙の作品が展示されている」と教えていただきました。京都・大阪の江戸時代以降の画壇についての展覧会で、せっかくなので時間を見つけて見学してきました。
もちろんお目当ての森狙仙の作品はしっかり見てきたのですが、それと別のとこ
ろにも1つの発見があったのです。大阪・京都で活躍した画人の系譜図を見ていたとき、その中に「山本春挙」という名前にピンときました。今回の特別展で森狙仙の作品を稿本として描いた作品を展示しています。系譜図を見ると、山本春挙は森狙仙の曾孫弟子にあたる、ということが書かれていたのです。それを考えると、狙仙の作品をもとに描く、というのは京都・大阪の画風のルーツの1つを探るようなことなのかもしれないと想像できました。狙仙という存在が連綿と受け継がれていたのでしょう。出張を終えてから、説明文を少しだけですが書き換え、貼りなおしました。
山本春挙 『群猿図』(森狙仙稿本) 全体と部分拡大
もう1つは以前にもご紹介した19世紀の霊長類図鑑『Storia Naturale delle scimie e dei maki』についてです。展示を準備しているときには、文章が英語では書かれていないこともあり、その絵が何の種類を描いたのかを推測していくにとどまっていました。展示が無事に始まり、改めて見ていくと、なぜこんな表現になったのかが気になり始めました。そこでドイツ語の部分を訳してみて(インターネットで翻訳できるのでだいぶ楽でした)、さらに当時の博物図譜について調べていくと、この画には元となった書物が存在することがわかりました。ビュフォンという人が書いた『博物誌』という書物です。
たとえばマントヒヒを描いた図版、なぜこんな正面を向いた姿勢だったのだろう
と思っていたのですが、『博物誌』をみると、このマントヒヒは2股に分かれた木の枝に座っていたのです。不自然に上がった右手は枝をつかんでいました。さらには,手前には横向きに伏せたもう1頭が描かれていました。つまり、この『博物誌』をもとに描くときに、顔が見えやすい正面向きの個体だけを描いたのだろうと思われるのです。少しずつアレンジを加えながら、イメージが受け継がれていったことがよくわかる1枚でした。ビュフォンの図版は『ビュフォンの博物誌』(荒俣宏監修,工学舎)という本に掲載されていますので興味のある方はご覧いただければと思います。
(学術部 キュレーター 新宅 勇太)
(学術部 キュレーター 新宅 勇太)
Pietro Hugues 『Storia Naturale delle scimie e dei maki』より扉とマントヒヒ
扉に描かれた門の最上部にはビュフォンの名が掲げられている