それは、この連載、“MMM”の舞台となっている、コンゴDRCではなく、アフリカの角、ソマリアでの出来事である。1988年、単身ソマリアの首都モガディシュに降り立った。まだ30代になる直前、若くて、初々しくて(おそらく)、定職もなかったし、お金もなかった。200ドルは当時の私には大金だった。それをモガディシュの空港で、強制的に現地通貨に替えよ、という。そ、そんな。200ドルも、数日で私は使う気などは、さらさらないのに・・・。
その頃私はロンドンの大学院修士課程で勉強していた。ボランティアとはいえ、南部アフリカ、ザンビアという国の専門学校で教師をした経験とか、すでにあったから、そこそこ英語でコミュニケーションが取れると思って、勉強に行った、ロンドン大学衛生熱帯医学校。そこでアフリカ仕込みの英語などさっぱり役に立たないことがわかって、すっかりしょげていた。いや、英語が第二外国語であるアフリカの人たちの英語でのコミュニケーションは完璧なのであって、問題は「アフリカ仕込み」の英語ではなく、ザンビアという国で英語が通じたことを「英語ができるんじゃないか」という誤解につなげた私の方であったのだ。ザンビアの人たちは、私の拙い英語に我慢し、わかろうとつとめ、わかったふりして授業を聞いてくれていただけだったのである。
イギリスでの大学院修士課程の一年は、必死で授業についていこうとするも落ちこぼれるわ、ディスカッションになれば、話にならずに、同級生のオランダ人に叱責されるわ、修士論文はどこから書いていいかわからないわ、いや、もう、悲惨な大学生活だったが、20代なら耐えられるのだ。なんとかそのような日々に耐え、この苦労を仕事につなげずにおくものか、と思えるくらいの元気はあったから、一年の終わり、大学に、ユニセフの人事担当者が人探しに来た時には、もちろん出て行って、「どこでも行きますから仕事ください」と宣言してきたのである。そこで回ってきたのが、ソマリアでの「必須医薬品オフィサー」とかいう仕事であったのだ。当時のユニセフは、「赴任地でインタビューを受ける」ということを、職探しする人に課していた。
そのようにしてユニセフの面接で、1988年の夏に渡航したソマリアの首都モガディシュで、強制的に200ドル、空港で換金させられた。80年代当時のいわゆる開発途上国では入国時に現地通貨に換金しなければならないところは少なくなかった。
200ドル、ソマリア・シリングに換金したら、山のような札束をどさっと、渡された。財布に入るどころではない、ハンドバッグにも入らない。スーパーのプラスチックバッグに入れて持ち歩くことになったというのに、このお金の使い道がない。モガディシュで泊まったホテルも、チェックアウトの時に、ドルしか受け取らないという。数日、インタビューだけのために滞在している私に、ホテルの支払い以外にどこでお金が使えるというのか。この200ドルは、結局、ユニセフのドライバーに連れて行かれた場末のインド人の店で、金の指輪を買うことに散財させられてしまった。一度替えたソマリア通貨は、二度とドルには戻らない。現地で使うしかない。貧乏・職なし学生は、なけなしの200ドルを払って金の指輪を買ってロンドンに帰ったのである。
インタビューは通ったものの、その後、ソマリアは内戦に突入、国連組織は撤退し、私の運命も違う方向に動き始めて、結局、ソマリアの仕事は、失職。手元に残ったのは、金の指輪だけだった。
それから約30年。久しぶりに見た。財布に入らない、山のようなお札の束。そういえば、ブラック・アフリカ自体に、ソマリア以来行ってなかったのだ。写真からもその汚れぶりが伝わると思う、この札束こそが、美穂さんが前回の連載で書いている、コンゴ・フランの札束である。
(三砂 ちづる)