ちょっと小難しい環境用語に「予防原則(Precautionary principle)」というのがある。地球環境は脆弱で、ある日突然、限界が来て、後戻りできない劣化がはじまる。生物種としてのヒトも、いつ絶滅の憂き目に会うかわからない。そうなる前に、きちんと対策を取ろうではないか! そういう話だ。
この原則ほど、「総論賛成、各論反対」のドグマに、晒されるものはないだろう。環境を守らなきゃという感覚は、今やどこの誰にでも何となく備わっているので、具体策の検討に異論を唱える向きは少ない(プラスチックごみ削減宣言を拒否して、G7を早退した誰かさんは例外のようだが (# ゚Д゚))。それでも、“後戻りが利かない限界”を予測する段になると、議論が可能な「価値観」を通り越して、エイヤで決める「感性」が幅を利かせてくるのだ。だから話が噛み合わず、環境破壊とか自然保護が叫ばれて久しいのに、ヒトはずっと“負け戦”を続ける羽目に陥っている。
その戦に、何とか完敗せずに済むようにと、我々は頭をひねる。まずは、地球の未来を知るところから始めよう。国際社会は「シナリオ」と呼ばれる、数十年後、百年後に残っていて欲しい自然環境を描くことに血道を上げる。多くの研究者も、純粋な探求心からあるいは研究費の配分から、この前代未聞の将来予測に巻き込まれていく。
“前代未聞”とあえていうのは、科学の方法論には「再現性」と「普遍性」という、いつ、だれが、どこでやっても、同じ結果が得られる“理論”を導くという大原則があるけれど、これを将来予測に応用していいんだろうか?素朴な疑問である。そして、この方法論が縛りとなって、肝心の科学者のあいだで価値観や感性のぶつかり合いが絶え間なく起こる。
この議論にはもう“絶滅”とか“適応(Adaptation)”とか、進化用語の真骨頂がボロボロ出てきて、「環境問題は人類進化論」を大いに実感する。でも科学者を自負する当事者は、(自分の手で自身の運命を測るという歴史的重責に耐えかねてか)科学的手法か否かという原則論に走りがち。
前提条件を変えるとあっさり?違う結論が導けるのが、環境科学、というか将来予測のやっかいなところだ。なんせ未来はいつまで経っても未来のままで、検証できた時にはそれは過去の出来事の一つに変貌し、あの前提がずれたからこうなったとは言えても、じゃあ本当に次はこのシナリオになるのかというと、新たな事実も判明してくるからちょっと軌道修正したくなり…まるで禅問答のような科学に見える。つまり信じる者は救われる!?
で、信じて救われたいから予防原則の出番。未来を語る大胆さ、「不確実性の時代」の強引さで、重大事項が起こっても最悪の事態を避けられるように、大きく遊び部分を残してブレーキを踏もう。
シナリオは何本も練られ、どの道を取るかの判断は、科学者の手を離れて政治に差し出される。良きにつけ悪しきにつけ、可能性がこれでもかとクローズアップされる。
で、「振り出しに戻る」で、今度は国家 vs 国家の感性、価値観のせめぎ合いである。前に書いたのは欧米 vs 日本だったけど、ここでは悲観論者と楽観論者。文明論者とナチュラリスト。あらゆる二項対立が議論を過熱させ、世紀の水掛け論!?が出現する。
でも、運命というのは一本道のはずである。あとから「たられば」は通用しない。どんな結末が訪れようとも、進化の一行程(たとえ退化であっても…)でしかない。
オオツノジカ。ツノのせいで身動き取れなくなって絶滅...
こんな時、リンガラ語では「Tokende na “katikati”(真ん中を行こうぜ)」。とんちの一休さん顔負けの、真ん中主義、“カチカチ”に落ち着けるのが、世の平和のコツである。1960年の独立以来、世界で一番自然が豊かな国で、何度も危機をくぐってきたテケの人たち。
そして同じコンゴ民主共和国に暮らす、類人猿の中でも稀にみる平和主義のボノボ。彼らが絶滅してしまう前に、我々が絶滅危惧種になる前に、学ぶべきものは何だ??
(岡安 直比)