「子育て」は、今の日本ではずいぶん大変なこと、ということになっている。女性の社会進出を妨げるし、母親たちは孤立しがちだし、とにかく「子どもの面倒を見ること」は、尋常ではなく「大変」なので、様々な支援が必要である、と言われている。この国の今、においては、おそらく、その通りなのであろうと思うが、どうやら、アフリカでは子どもの面倒を見ることはあまり「大したこと」だと思われていない節がある。
カラ村のトラッカーと親戚の女性たち
職場の同僚、丸山淳子准教授はボツワナでブッシュマンの研究をしている生態人類学者だが、一番最初にフィールドに入った時、「水汲みも食事の支度も何もできないんだから、子どもの面倒でも見ておきなさい」と、赤ん坊を、はい、と渡された、とおっしゃっていた。つまり「何もできない人にでも、赤ん坊の世話ぐらいはできるであろう」というのが皆様の認識らしい。確かに、アフリカに行くと、赤ん坊を背負ったり抱えたりして、世話をしている子どもたちに、いつも出会う。「誰にでもできる」んだから、ちょっと大きくなって歩いている子どもには「できるでしょう」ということなのであろう。
我らが、ペル村、カラ村にもたくさんの子どもたちがいて、4、5歳の子どもたちはもうすでに、赤ちゃんを背中に背負っていたり、抱きかかえたりしていてみんなで遊んでいた。これを「子どもに子守りをさせて学校に行かせていない」などというステレオタイプな発想で受け止めてもらうまい。彼らは近所にできている小学校に通っているし、この村の人たちの教育レベルが、ボノボのいる森に隣接するほど辺境でありながら、十分に高そうであることは、すでに書いた。
子どもが子どもの面倒をみること。子どもが幼い子どもを背負ったり抱っこしたりして育つこと。これは、Mbali の日々を過ごした私の、その後の追っていきたい課題の一つとなっている。人間は、生まれた時から、他の人との密な身体的接触とかかわりの元でこそ、生きることができる。生まれてすぐ親に抱き上げられないと、それからずっと眼差しを向けられ、触れられ、抱きとめられ、くっついて運ばれていないと、つまりは、濃密な身体接触の元で育てられなければ、そもそも赤ん坊は育たない。それから一人で歩くようになったって、幼い子どもは誰かにしっかり触れられ、抱きとめられていないと、つらい。親がそうしてくれなくなった頃の年齢には、友人やパートナーにそうしてもらいたい。そういう身体的な密な接触が欲しいから、恋というものをするのだ。単なる性欲にまさる、身体的に触れてもらいたい、という根源的欲望は、満たされなければならず、満たされないことで、さまざまな心身の問題の根っこになるであろうことを、自分の胸に手をおけば、誰でも気づく。
まだ小さな子どもが自分より幼い子どもを世話する、ということは、その赤ちゃんは、親のみではない、他のより年長の子どもとの濃密な身体的接触が担保されることになるし、赤ちゃんを背負ったり、抱いたりしているほうの子どもも、また、赤ちゃん、というふわふわでやわらかい人間に、常に濃密に触れ続けるきっかけが与えられている。そのようにして、育ち、育てられれば、世界と自分の受容の仕方は、カッコつき“先進国”で育つ人とは、おのずから違ったものになるであろう。
どうすれば、人間は常に親密な身体接触の中で生を全うできるのか。これはもう、ボノボ研究者にまだまだ教えてもらうべきこと満載な、重要な課題なのだが、「おむつなし育児」とか「自然な出産」とか「月経血コントロール」とか研究課題にしてきた私には、改めて、Mbaliの子どもたち同士の、密接に触れながら育っていく姿が、際立って印象的だったのである。
(三砂 ちづる)