三魔女、テケ王国を行く。

進化という名のサバイバル
 想像力をタイトルに掲げたのに、想像力の話までたどり着かなかった前回( ̄▽ ̄;)
我々の暮らし(人生)というのは一本道しかなく、結果オーライか否かしかないのだから、将来予測のシナリオを何本書いても、選ぶ道は「自分だけは損をしない」か「みんな損をしない」かのあいだのどこかに落ちるだろう。

 普段、私たちは意識しようがしまいが、「想定外の事態」に対応しながら生きている。つい先日も、大阪北摂、地震が少ないはずの地域で地震が起きた。不幸にも被害に遭われた方々に、心からお見舞いとお悔やみを申し上げます。

 私も前日まで、まさに震度6を記録した辺りの知人を訪ね歩いていたので、朝のニュースを見てびっくり仰天。皆さんの安否確認に追われた。東日本大震災で自分が経験した、東京の震度5強を上回る揺れ。想定外、そのものだった。

 その意味では「後悔先に立たず」ということわざは、含蓄深い優れモノかも知れない。万一、悪い結果が出てしまっても“たら”“れば”を最小限にできるよう、賢い選択をしたいという和の心がにじむ。このセンテンスをあえて英語にしても、“It is no use crying over spilt milk.”ニュアンスは出ない。自然の威力が半端ない中で想像力をフル回転させながら、「備えあれば憂いなし」とばかりに「転ばぬ先の杖」を駆使して暮らさざるを得ないお国柄。地震、台風と猛威を振るう自然に翻弄され、成す術もなく破壊される生活を前に、この言葉は「やるだけやったら、あとは諦めが肝心」という知恵も映し出しているように思える。“spilt milk”と同列に並べている場合じゃない気がするのだ。

 リンガラの「Tokende na“カチカチ”」も、豊かな大地と資源の凝集した“コンゴ”の暮らしが生み出した知恵なのだろう。自然の苛烈さは日本とはタイプが違うが、深いジャングルと動物たちは、共に暮らすに決して楽な相手ではないし、凍え死ぬことはなくても、マラリアが赤ん坊の命を狙う。

 人生で一番、自己形成したなと思い出す30代。
多くの時間を彼の大陸で過ごした私は、マラリアで生死の境をさまよったりしているうち、こんな中で自分の状態を常にモニターして、ふわふわと可もなく不可もなく“カチカチ”に保つことを、何となく体得した。自分をモニターするには、周囲の状況を正確に把握できなきゃダメで、中央値=“カチカチ”に保つには経験が要る。
 ダーウィンの進化論では“適応”で生き残るという競争原理が強調され、我らが今西錦司御大の進化論では「変わるべくして変わる」。両極端な議論は、擬人化か否かで対立した、日欧のサル学手法と瓜二つ。今西さんのはメカニズムがないから科学じゃないと言われると、科学だけで進化が語れているか?と訊き返したくなる。

 アフリカ類人猿の中で、一番バラエティーに富んだ暮らしをしているのが、チンパンジーなことは間違いない。私の隣人、チュウオウチンパンジーは集まらない?暮らし。でもいざとなれば集まっても大丈夫。密猟の激化であちこちに作られた類人猿の孤児院で、もっとも生存率が高くて混みあってるのが、チンパンジーサンクチュアリである。しかも内情はただ一緒にいるというより、「政治をするサル(Chimpanzee Politics)」に活写されたように、競争より“カチカチ探し”で折り合いをつけているようだ(余談だけれど、擬人化の嵐でもドゥ・ヴァ―ル博士の本はベストセラー...)。

 他方で、野生ではゴリラとも集ってみたりする、類人猿の“共食”(ともぐいではありませんよ、ともぐいでは!?)場面もいわくありすぎで、ちづるさんが言うようにセクシー。生存競争という味もそっけもない単純明快メカニズムだけで、禁断のお味?は理解不能だ。


 そしてこのお味を賞味可能になって初めて、我々のサバイバルも先が見えるというのが、長年、環境問題なんていう因果な商売を手がける、私の秘かな人類進化論である。勝ち勝ち一辺倒じゃない、カチカチな未来、いかが?
岡安 直比
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2018年7月5日更新
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