三魔女、テケ王国を行く。

コンゴ河を渡る
 年明けに向けて、いよいよ連載の目的地、Mbaliの地とボノボが本格接近である。ちづるさんはチャーター機で、Mbaliに向けて飛び立ったし、美穂さんはボノボII号で、Maloukou港から出航後、一夜を過ごすKwamouthに無事たどり着いた

 その機上から、ちづるさんが、世界で一番近い首都同士、キンシャサとブラザビル(地理の入試問題!)の光景を見ながら、「この両岸をゴリラやボノボを追いながら、よく往復…」と私を紹介されたのを読んで、ふと「そういえば、どっちともご縁深く生きてきたけど、“往復”しはじめたのは最近だな」と思い出した。

 一番近いはずの、すぐ目の前に見えている街のあいだを、初めて渡ったのは2014年秋。キンシャサから、私のもう一つのフィールド、カメルーン南東部に行くには、ブラザビルから900キロ北の町ウェッソまで定期便が飛んでいる、コンゴ共和国経由が圧倒的に“早くて安い”ことに気づいてからだ。
ブラザビルの橋から観たブラザ(左)とキンシャサ(右)の遠景(2017年)

 そう、ついこの間まで、アフリカ中部の国々の間を、気軽に陸路でうろつくなんてこと自体、想定外の世界だった。そのためのビザや相応の通行許可を、手に入れるのにかける気の遠くなる手間と時間。コンゴ共和国大使館が東京にできたのが2013年で、それまでは北京の大使館が管轄で、入国理由を証明するおびたたしい書類が要った。

 ちゃんと届くのかも不安だし、それならフランスにある大使館に、コンゴに行きがけに申請すれば済みそうだが、2週間かかると言われた。日本に大使館があるDRCもガボンも似たようなもので、おいそれと入国できる国々ではなかったのだ。
 かてて加えて“札束問題”。今はキンシャサでもブラザでも、換金屋でフツーの人がドルやユーロを買っていて隔世の感があるが、長いあいだ、このお金の流れは、銀行が「外貨を買う」完全な一方通行だった。出たドルは戻らない。

 となると、一番、首都が近くて言葉まで同じなのに通貨が違う国のあいだを、ドルとユーロの“札束”を抱えての移動である。まかり間違ってコンゴフランが残りでもしようものなら、腰巻に隠すどころか鞄にも入り切らない“塊”である! 空港のような隔離された場ならまだしも、あらゆるタイプの人々(当然、泥棒も)がごった返す港のしかも国境を、数カ月分の生活費の現ナマを持って渡る勇気は、さすがの私にもなかった。

 それが今は便利な世の中になって、どちらの街でもATMでお金が下ろせる。行く手を阻むビザも札束も解決となれば、そりゃあ河を渡らない手はない。最初はそれでもドキドキしながら、ブラザビルからキンシャサへ向けて高速船に乗った。20数人を乗せたモーターボートは、5分で対岸に着く。世界一(?)警官に絡まれることで名高い空港を擁するキンシャサだから、港湾警察もさぞやややこしいだろうと覚悟していたが、拍子抜けするほどあっさり外に出られた。これも曲がりなりにも10年続いた、通貨の安定と平和のおかげか。

 港で少々、心配というと、数時間パスポートを預けることだ。フェリーのチケットを買ったら、出国カードに記入してイミグレに提出。その登録がすべて手作業で、大きなノートに官吏が順番に記入していくから、スーツケースを引きずりながら行方を見守る。そのあとフェリーの席が埋まるまで、船会社に身分証の束は“拉致”されて、乗船ギリギリにテストを返されるような調子で、大声で名前が呼ばれて戻ってくる。

 今を去ること30年のザイール渡航が決まったころ、先輩たちから聞かされた“武勇伝”の中で、強烈だったのがキンシャサの強盗だ。盗られたパスポートは中国マフィアに渡ったらしく、数カ月後、まったく違う写真が入って、香港だかどこだかまで旅してきて“捕まった”。犯人は実に上手にサインを真似ていたらしい...。そんな事態になっては叶わんと、港でマタビシ目当てに手伝いを申し出る小役人を蹴散らして、自力ですべて手続きをしていたら、とうとうキンシャサでまで、「こいつはリンガラ遣いの”行儀の悪い”コンゴ女。ちったぁ地元の人間にチップも弾むのが人情ってモンだぜ!」とたしなめられてしまった。やれやれ…
岡安 直比
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2017年12月10日更新
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