これまで都合6回、Mbaliに足を運んだと書いたが、「何かが起こってしまった」最初が一番、しんどかったかというとそういうわけじゃない。知らぬが仏、とはよく言ったもので、長いアフリカ経験でもコンゴのような大河に漕ぎ出すのは初めてだったから、何が起こるか予測がつかず、「結果オーライ」で済んじゃったのだ。
で、美穂さんが、「浸水のほうが助かりそうな気がする」と書いているそのままに、元祖BONOBO号は沈没の憂き目に会いかけた。モーター2台、トイレ付ゴージャスBONOBO II号に比べ、どこでもトイレの元祖は喫水10センチ。「なんか荷物のバランス悪くない?」って訊いた私に、「ダイジョブ」と船頭(サンドウィッチ分けてやったあいつだよ!)が軽く言って出航したのはいいが、道中はさすがDRCの騒がしさ。
メリバ・ホテルを朝5時出発も、Maloukouの港を8時出航も、MMMの旅と変わらぬ想定内だったが、問題は河の上。ご覧の通りの小型船、あまり中流に出張ると重くて流れを遡れないから、岸から離れてもせいぜい50メートルをうんしょうんしょと進む。当然、岸からも白人と荷物を満載したボートは丸見えで、要所要所で目を光らす国境警察が、いいカモが来たとばかりに「そこのBONOBO号、端に寄って停まりなさい」と、高速モーターボートで身軽に追っかけてくる。
我々がどんなネギを背負ってるかと言えば、もちろんマタビシである。本来、乗船料にこういう“手数料”は織り込み済みで、船頭と助手が始末をつけるのが筋だが、ポリスには白人乗客が旨みだから、何かの“罰金”の値段が倍に跳ね上がっているらしい。
2回は船上の交渉で決着ついたが、1回は大きな関所で接岸させられ、詰所まで呼ばれた彼らは戻ってくると、
「10万フラン(約1万円)払わなきゃ、俺たちを拘束するって言ってる」
「ここで1週間、足止めされてもいいなら、拒否しよう」
と開き直りである。四方が水か野っ原の真ん中で、手足をもがれては身動き取れない。学生たちはしぶしぶ、要求額をお財布から出していた(知恵をつけてもらった私は、次の船旅からは休暇から帰るポリスを拾い、持ち場まで乗せていく“技”を身につけた)。
結局18時になっても、Kwamouthは影も形もない。
「暗くなるからどこかでビバークしよう」と言っても、あと少しと譲らない。そうこうするうち、足元をヒタヒタと水が満ちていく感触がする。慌ててヘッドライトをつけたら、足首まで水がきているじゃないか!!!
「接岸!」となぜか私が叫んで、学生たちも水をかき出しながら方向転換。ちょうど人家に繋がるらしい砂地が見えて、ボートを引き上げて事なきを得た。
船頭たちは、水を出したら出発するというが、夜9時過ぎ、穴があいたかも知れない船で、そんな無謀はまっぴらごめん。晩ご飯もないからさっさと寝て、明るんだらすぐ出航に限る。屋根に積んだマットレスを広げて、9人の老若男女が岸で雑魚寝の図は、さぞかし見ものだったろう(暗くて良かった)。蚊帳を出すどころじゃないから、雨具をピッタリ着て長靴もそのまま、フードを鼻だけ出してかぶり、”どこでもベープ”で自己防衛。タンクトップと短パンで寝られる、ヨーロッパの若者たちの大胆さがまぶしかった...。
翌朝4時から薄明りを頼りに荷物の積み直し。どうやら前日の浸水は、傾いだ船が蹴立てる水しぶきを、12時間!休みなくかい出していたアシスタントくんが、夜8時になって力尽き手を止めたことが原因だったらしい。だから言ったのに!!
Kwamouthの先のカサイ河との合流点は、コンゴ河随一のChute(荒瀬)だという。思わず鳴門の渦を想像し、
「そんな場所、この船で渡り切れるのか?」と手に汗握りながらの出発である。
コンゴ河とカサイ河合流点
しかしくだんの合流点に差しかかる頃、ちょうど日の出を迎えたあたりの光景は、この世のものとは思えぬぐらい幻想的で、身体に震えがくるほど感動した。二つの河がぶつかって、まっ茶色な濁流が泰然と盛り上がる上を(今度はバランスよく)滑りながら、あまりに広くてかすんだ岸辺が、オレンジに浮かぶ太陽の光に溶け出し、空と河の見分けがつかなくなる。ここからいよいよ、ボノボの森なのだという、心地よい興奮とともに船は進む...。
(岡安 直比)